DRAGONBUSTER 秋山瑞人 ------------------------------------------------------- 《》:ルビ (例)生国《しょうごく》は卯《ウー》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)円将|王朗《オーロ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)※[#かねへん+票] -------------------------------------------------------    それぞれの可能性 前編  そもそも阿鈴《アレイ》は酒が飲めない。酒家の客は回暑《かいしょ》の日の給金を得て浮かれ騒いでいる荒くれ人足たちばかりで、稽古着《けいこぎ》姿の阿鈴がぼんやりと箸《はし》を動かしている有様は、真夏の闇夜《やみよ》を照らすに足りない提灯《ちょうちん》の明かりの下でも否応《いやおう》なく目立っている。講武所も一番手ともなれば余程《よほど》ましな賄《まかな》いを出す宿舎も備わっているというのに、稽古の後の晩飯は果蘭門の目抜き通りを果てまで歩いたこの店で摂《と》るのが阿鈴の習いだった。ここの主《あるじ》は大昔に遠く南邑《なんおう》の辺土から大仙江を遡ってきた偏屈親父で、どういう材料で何を作るときにも火辛油をどぼどぼ入れなければ真っ当な料理とは言えないという考えの持ち主である。辛《から》さのあまり皿の上を飛んだ蠅《はえ》が落ち、南邑人はそれを気にもしないで蠅ごと食ってしまう——かの地の田舎者《いなかもの》を馬鹿にするそれは常套句《じょうとうく》であるが、身の汗水を絞り尽くした男どもにとっては安酒の肴《さかな》としてむしろ都合がよいのかもしれず、十五の春に南邑を捨てた阿鈴にとっては未《いま》だ懐かしい故郷の味なのだった。あれから四年が過ぎた。  もう四年、という気もする。  まだ四年、という気もする。  元都の外西門をくぐり、右も左もわからぬ雑踏の只中《ただなか》に立ち竦《すく》んだあの日、阿鈴は武者修行どころか一日を生き抜くのに精一杯だった。嵐のような四年が過ぎて、一番手講武所の一番弟子となった今もなお、脳裏にふと立ち現れるかつての自分の気配を阿鈴はどうしようもなく持て余すことがある。宿舎の賄いに馴染《なじ》めぬ貧乏舌も、この先も改まることはないのだろう。 「——お前さあ、おもて歩くときはもっとましな格好に着替えろよ」  顔を上げると、まるでどこぞの商家の馬鹿な二代目といった身なりの男が提灯の明かりの中にのっそりと入ってくる。阿鈴は目の前の欠け皿に視線を戻してぼそりと呟いた。 「面倒です」 「あのな、お前はうちの道場の顔なんだぞ。少しは体面ってものを考えたって罰《ばち》は当たらねえだろう」 「——道場に戻ったら、もうひと汗かくつもりですから」  しょうがねえ野郎だ、と藍芭《ランバ》は思った。  阿鈴と差し向かいの席に着き、大の男の晩餐《ばんさん》としてはあまりに寂しい卓の上を一瞥《いちべつ》して藍芭はうんざりとため息をつく。料理は屑豆《くずまめ》と羊の臓物、その傍《かたわ》らに置かれている古びた銚子《さしなべ》の中身は茶ですらない、ただの水に決まっていた。通りがかりの女給に白酒を注文し、改めて阿鈴の顔をのぞき込む——同期の入所で歳《とし》も同じ、しかし酒も博打《ばくち》も女もやらぬ堅物ぶりは最初からずっとこの調子で、せめて口の利《き》き方くらいは改めさせようという試みも、知り合ってひと月が過ぎる頃にはすっかり諦《あきら》めてしまった。  ——こいつは、本当に変わらない。  それが阿鈴の長所であり、短所でもあると藍芭は思う。  伸ばし放題の髪を後ろ頭で束ねているのは、これと定めた目標を達するまでは髪を切らぬという南邑人の願かけであるらしい。額の生え際《ぎわ》から鼻の先まで垂れ下がる後れ毛を見つめ、藍芭は刺客《しかく》が匕首《あいくち》を抜き放つようなひと言を口にした。 「聞いたぞ。大比武《だいひぶ》の話」  束《つか》の間、阿鈴は無言だった。 「——時間の無駄ですよ。今すぐ道場に戻って、やはり阿鈴の決意は固いようだと師範に伝えてください」 「あら、そんな水臭いこというの? ——そりゃまあ確かにさ、お前を説得してくれって師範に頼まれはしたけどな、ここに来たのはあくまでも俺個人の意思だよ」  ——しかしあれだ、  藍芭は苦笑を禁じ得ない。阿鈴を止めてくれと懇願《こんがん》する師範の必死の形相ときたら見られたものではなかった。所詮《しょせん》は武臣倫院内部の政治闘争から落ちこぼれた小人物と言うべきか。あの様子では、最初に阿鈴の口から大比武踏破の決意を聞いたときには危うく卒倒しかかったに違いない。つまらぬ用事を言いつけられて、ここ三日ほど道場を空けていたのは返す返すも痛恨事である。 「——なあ、師範は何て言った?」 「とにかく、もう一日よく考えろと」  くく、藍芭は喉《のど》の奥で笑う。かつての古巣に返り咲くための唯一の手蔓《てづる》を失いたくないのであれば、やおら腰の物を抜き放って「我が屍《しかばね》を踏み越えてから行け!」と叫ぶくらいのことがなぜできないのだろう。ことの起こりは昨日の夕方、稽古終わりの訓示の場だったというから、「よく考えるための一日」はもうとっくに過ぎてしまっているということになる。 「——で、やっぱり気は変わらんか」  口を開きかけた阿鈴を制し、 「生半可な覚悟じゃないってのはわかってるつもりだ。ただほら、俺としても死にたがりの同期を黙って見過ごすわけにもいかねえからさ、鬱陶《うっとう》しい奴《やつ》だと思うかしらんが、言いたいことだけ一応言わせてくれ」  そこで白酒が来た。安物の椀《わん》にどろりとした液体を注《つ》いで軽く喉を湿らせ、一体どこから話を切り出したものかと藍芭は考えを巡らせる。  大比武と言えば、一般的には大規模な軍事演習を指す言葉である。  しかし、藍芭が阿鈴に出場を思い留《とど》まらせようとしているそれは�洞幡《ドーハン》の大比武�——即《すなわ》ち、素仏來王の昔に占雅殿の前庭で始まり、後に琉河の刑場跡へと場所を移され、今日では洞幡の演武場で毎年の秋に挙行される真剣試合であった。在野の武人であれば一切の参加資格を問われず、観戦する将官たちに武技優秀と認められれば、たとえ初戦で敗退した者であっても相応の軍籍を与えられる。  講武所という制度が人材の「育成」を旨《むね》とし、出所後に約束されている階級に最高でも兵長までという制限があるのに対して、能力次第で一足飛びの出世が可能な洞幡の大比武は、最初から腕に憶《おぼ》えのある者たちをふるいにかけて強者《つわもの》のみを残す「選別」を旨とする制度である。出願期間は夏——正確には回暑から先涼《せんりょう》の三十と三日間、すべての対戦者を下して頂点まで勝ち上がった者は「独峰《どっぽう》」と呼ばれ、その出身地にまで「嶺」という尊称が冠される。この卯《ウー》という国に生を受けた武人であれば、大比武の踏破は誰《だれ》もが一度は想いを馳《は》せる遥《はる》かな武の頂には違いなかった。 「——まずはそこだ」  藍芭はぽつりと独り言《ご》ちて、 「そもそも、大比武の独峰がこの国一番の武達者だと、お前、本当にそう思うのか?」  阿鈴は怪訝《けげん》そうな顔をする——違うという理由がひとつでもあるのかと言いたげだ。 「考えてもみろ、真剣での勝ち抜き戦だぞ? 今どき、軍隊なんかより割りのいい稼ぎ口が他にいくらでもあるのに、剣一本で食っていけるだけの腕の持ち主が一体何を好き好んでそんな危ない橋を渡る必要がある? 闇雲に戦いたがる奴が必ずしも強い奴だとは限らんだろう?」  ——「本物」が、そう簡単に真剣試合になど応じるわけがない。  それは、大比武の独峰という公式な権威の陰で、多くの皮肉屋たちによって常に囁《ささや》かれ続けてきた批判だった。長年に亘《わた》る修行を経た一角《ひとかど》の武人ともなれば、まさか功名心にのぼせ上がるような年齢でもあるまい。ある者は軍禄《ぐんろく》など問題にもならぬ大金を日々稼ぎだし、ある者はすでにその腕で身を立てて何らかの責任ある地位へと至っているはずであり、今さら連中がそれらをすべて投げうって真剣試合に身を晒《さら》すことなど考えられないというわけだ。  ところが、 「——自分は、そうは思いません」 「なぜ」 「まず第一に、大比武においては試合中の降伏が認められています。負けた側が必ず命を落とすというものでもありません」 「だからそれほど危ない橋でもないってか? つまらんこと言うんじゃないよ。降参した相手にうっかりとどめをくれちまったって何のお咎《とが》めもないんだぞ。勝った側からすれば、遺恨を残したままにするよりは殺しちまった方が身のためだ」 「敗者からの恨みつらみを受けるのは何も大比武に限った話ではないし、むしろ武人の日常と心得るべきです。そんなことを怖がっているようでは同門での木剣試合もできない」  藍芭は目を見開いて阿鈴を見つめた。余人が同じことを言ったら思うさま笑いのめしてやるところだが、阿鈴の口から出た「恨みつらみは武人の常」という言葉には得体の知れぬ説得力があった。確かに、阿鈴にはそれを口にする資格があると藍芭は思う。一番手講武所の一番弟子へと至る道程において、この男は一体どれほどの闇討ちや妨害を乗り越えてきたのだろう。 「第二に、剣の腕とは、単なる小手先の技術論だけではありません。木剣試合では真の実力はわかりませんし、木剣試合で勝利することが剣術の最終的な目標でもありません。真剣を手にした相手を真剣で倒してこその剣術であり、ましてや大比武では降伏まで許されている。その程度の場にさえ出てこられないような者は、いざ問答無用の切っ先を前にしたら必ず怖気《おぞけ》をふるいます。そうなったら普段の実力の半分も発揮できない。道場稽古の『達人』が、しばしば夜盗の振り回す包丁の類《たぐい》に討ち果たされる所以《ゆえん》です」 「——おいおい、ちょっと待てよ、」 「大比武に名のある高手たちが参加しないという批判はある意味で正鵠《せいこく》を射ている。——実際のところ、彼らは高手などではないのだから。自分に言わせれば、守るべきものを抱え込んでしまったというそのこと自体が弱さに他なりません。銭金であれ地位であれ、それらと引き換えに命のやり取りをする気概を失ったというのであれば、どう言い逃れようとも彼らはすでに商売人であり官吏《かんり》であって、武人ではないのです」 「——まったくわからん奴だな」  藍芭はがりがりと頭を掻《か》き毟《むし》る。 「あのな、もう一度言うぞ。剣の腕の良し悪しと真剣勝負に臨む覚悟のあるなしとは何の関係もないんだ。そいつは単なる考えなしで自暴自棄な半端者《はんぱもの》かもしれんのだから。世間に認められるような結果も出せてないくせに、いきなりのるかそるかの大博打に出てくるような連中はそっちの割合の方が遥かに高いさ。危険を冒して大比武になんて出てみたところで、そこにお前が求めているような相手がいるとは到底思えんと、最初から俺はそう言ってるんだ」 「ですから、自分は、そうは思わないと最初から言っています」  しかし阿鈴も退《ひ》かない。 「無論、俗世に何の関心も持たぬ最強の剣人がどこぞの山奥で仙人暮らしをしているかもしれない、という可能性を否定はしません。しかし、そんなことを言い出していたらきりがない。現実問題としては、実際に刃《やいば》を交える機会のある相手のみをこそ考慮の対象とすべきです。大比武に参加しようとしない名ばかりの高手たちも、自分にとっては山奥の仙人と同じ、考慮するに値しない『例外』に過ぎません。最初からそのような存在を持ち出して『今は戦うべき時でない』とするのは、理屈として間違ってはいなくても、結局は己の怯懦《きょうだ》を正当化する考え方だと思います」  藍芭は深い深いため息をつき、しばし黙考して攻め手を変えた。 「——なあ、聞いてくれ」 「聞いています」 「これがお前じゃなくて、荒蛇《ゴーダ》や磨胡《マルコ》あたりだったら俺だって止めやしねえさ」  藍芭は卓に肘《ひじ》をついて身を乗り出し、 「二人とも学もなけりゃあ金もねえ、おまけに天涯孤独の身の上だからおっ死《ち》んだところで泣く奴もいねえ、肝心の腕前はまあまあってところだが、このまま講武所を出たところで使い捨ての※[#かねへん+票、読みは「ひょう」]師になるか、悪くすりゃあ山賊の側に身を落とすか。軍隊に入ったってどうせ講武所上がりの兵長ドノで一生を終えるのが関の山だ。それならいっそ大比武に命を張って、軍の偉いさんたちにせいぜい格好いいとこ見せて、頃合いを見計らって降参すりゃあ、少なくとも今よりましな道だって拓《ひら》けるかもしれん」  そこで藍芭は椀を高々と傾けて中身を一気に空けた。自分の口が、次第に歯止めを失いつつあると心の底では自覚していた。 「荒蛇は自分からは口が裂けても言わねえだろうから、代わりに俺が言ってやる。いいか、あいつは今年の大比武に出願するつもりだった。歳を考えても今年が最後の機会だろうしな。これでいい結果が出なかったらすっぱり諦めて軍隊に入営する覚悟だったんだ。それは師範も承知のことだった。一番手から五番手あたりまでの講武所は毎年一人ずつ名代《みょうだい》を出す慣例になっているが、お前が妙な気を起こさなかったら荒蛇は一番手の看板を背負《しょ》って最後の大一番に立てたはずなんだ。世の中、お前みたいに出来のいい奴ばっかりじゃねえ。大比武に命を張るより他に手がねえって連中もいるんだよ」 「——何が問題なのかわかりません。大比武に、ひとつの講武所から二名以上が出願することを禁じる規則などないはずですが」 「馬鹿。規則なんかなくたってな、こういうことは前例や外聞が何よりも優先するんだ。一番手はどうやら弟子の束ねが利かないらしい、なんて偉いさんたちに思われたら師範の進退問題になっちまうだろうが。大体お前、両方が勝ち残っていけば荒蛇と当たるんだぞ。そのときはどうすんだ、斬《き》り殺すのか?」 「言うまでもありません。全力を尽くして戦うまでです」  阿鈴の言葉には一片の躊躇《ためら》いもない。 「荒蛇は侮《あなど》れない相手だ。何度でも繰り返しますが、明日戦うといつまでも言い続けている名家名門の師弟よりも、今日戦うと言い切る荒蛇の方が自分にとっては余程の脅威です」  ため息も涸れてしまった。  耐え難い徒労感に藍芭はうつむく。空の椀を手の中で弄《もてあそ》びながら、 「——もう勝ったような口ぶりだな」 「まさか」 「お前が死んだら、甘葉《カナハ》が泣くぞ」  そのひと言で、阿鈴が初めて押し黙った。  言わずに済めばそれに越したことはないと思っていたひと言だった。人材登用の手段が聞いて呆《あき》れる、大比武など残虐《ざんぎゃく》非道な見世物に他ならないと藍芭は思う。その渦中《かちゅう》に自ら飛び込もうとしている阿鈴を止めなくてはならないと思う。だからといって、そのひと言を口にするのはまるで人質を取るのにも似て、武人の端くれとして卑怯な行いであると思う。 「——わかってるよ。師範が勝手に決めた許婚《いいなずけ》だし、お前としても色々と言いたいことはあるだろう。まったく薄汚ねえよな、この先どう転んでも出世街道を行くこと間違いなしの勝ち馬に手前の娘をあてがって古巣に戻る算段をつけてもらおうって腹だ。そんなことは道場の連中だってみんな知ってる。辻《つじ》の芝居でも石を投げられそうな古臭い筋書きだよ」 ここまで言ったからには最後まで言い切らねばならない。あるいは武人の非道は凡人の正道なのかもしれず、口を突いて出る言葉のひとつひとつにそれまでにない力がこもるあたり、自分はつくづく凡人なのだと藍芭は思い知る。 「でもな、いい子じゃねえか。ちっとばかし身体《からだ》が弱いのは玉に瑕《きず》だが、頭もいいし、気立ては優しいし、入所したての新米なんぞはお言葉を頂戴しただけで手と足が一緒に出るくらいの別嬪《べっぴん》だしな。おまけに甘葉はずっと前からお前に惚《ほ》れてる。——なあ、どうせお前のことだから、大比武の話は甘葉にはまだ打ち明けてないんだろう。一体どう説明するつもりだ?」 「——お前、南邑じゃ名の通った酒蔵《さかぐら》の三男坊なんだってな」  突如《とつじょ》、店の奥で歓声が上がった。  見れば、妻が子を宿したと告白した男が照れ笑いを浮かべ、仲間に取り囲まれて散々に小突き回されている。視線を戻すと、阿鈴がまるで男色の趣味を言い当てられでもしたような顔で目を見開いていた。 「——自分は、寝言でも言いましたか」  椀に再び白酒を満たして藍芭はくつくつと笑った。父親に勘当《かんどう》されて以降の南邑には一度も帰っていない——確かに、阿鈴自身の口から聞いたのはそれだけだ。 「あのな、俺の目は節穴と違うぞ。二年ほど前からか、お前んところの爺《じい》やが時々こっそり様子を見に来てるだろう。何度か話をする機会があってな、この前なんか飲み代を借りた」 「あれは——」  いつになく慌てている阿鈴が、藍芭はおかしくてならない。 「あのひとは、自分の叔父《おじ》です。身なりや物腰はあんな風ですが、南邑府に軍属扱いで雇われている薬学者で——」 「へえ、学者先生とは思わなかったな」  ちびちびと椀を傾けながら藍芭は目をぐるりと回した。なるほど、軍属の薬学者ということは、兵要地誌の作成に協力して方々の辺境を常に飛び回っているはずであり、昔から神出鬼没が身上の男なのだろう。 「叔父さん言ってたぜ、大運河の船着場でばったり出くわしたとき、あんまり立派になってたんですぐにはわからなかったって。——そりゃあそうさ、なにしろ大卯国元都一番手講武所の一番弟子だもんな。意地っ張りのカミナリ親父も今じゃ酒が入ると死んだはずの三男坊の自慢話が止まらねえらしいじゃねえか。お前が南邑に帰ってくるなら勘当もなかったことにする、閃閣武林に口をきいて指南役の席も用意するって、そこまで言われているんだろう?」  最後の鍔際《つばぎわ》だった。  藍芭はおもむろに椀を置き、 「なあ、これ以上何を望む? 甘葉を連れて故郷に帰れよ。自分ちの婿《むこ》が閃閣兵法の本山に納まると聞けば師範もまさか嫌な顔はしねえさ。据《す》え膳《ぜん》の指南役が気に食わねえなら自分で他の口を探したっていいし、親父と顔を合わせるのがどうしても業腹《ごうはら》だと言うなら無理を押してまで南邑に戻れとは言わん。お前なら、軍隊に入営して兵長から始めたって歴代独峰の誰にも負けないくらい出世できるさ。いいか、命の重さってのは自分じゃなくて周りが決めるんだ。お前自身がどう思っていようと、お前の命はもう、真剣試合なんぞに気安く投げ出せるほど軽くはないんだ。悪いことは言わんから、大比武への出願など止《や》めておけ」  言うべきことはすべて言い尽くした。  そして、阿鈴の瞳《ひとみ》をのぞき込んだ藍芭は、すべての努力が空《むな》しかったことを知った。 「自分は——」  逡巡《しゅんじゅん》もなければ気負ってもおらず、ただ、胸の内に確として存在する明々白々たる「理由」を言葉にして説明することがどうしてもできない——阿鈴の表情は、そんな風に見えた。  ふと、その顔に気弱げな笑みが浮かんで、 「——なんだか、最初から、話が噛《か》み合っていなかった気がしますね」  藍芭も笑う。 「そうだな」  自分は、大比武に出るべき道理の不在を語った。  阿鈴は、大比武に出てはならない道理の不在を語った。  阿鈴が胸中に隠し持っている「理由」が自分にはまるで見えないように、自分が言葉を尽くして語った「理由」もまた、阿鈴には最初から最後まで少しも見えてはいなかったのだろう。ごく普通の損得勘定ができる者にとっては、剣の腕が優れていればいるほど大比武への参加など引き合わない。なぜそこまで損得勘定をするのかと言えば、剣の腕とはあくまでもそれ自体が目的なのではなくて、別の何かを達成するための代替可能な手段のひとつに過ぎないからだ。  普通はそうだ。  結局はそこだ。 「この国において、大比武よりも高い武の頂を存在しません」  阿鈴が席を立ち、懐《ふところ》の財布から銅滴を乱雑に掴《つか》み出して卓上に置く。 「自分には、それで充分です」  涸れていたはずのため息が戻ってきたのは、阿鈴の稽古着姿が真夏の闇夜に紛れ去ってからしばらく後のことだった。目の前の臓物煮込みは皿の底が隠れる程度には残っていて、赤黒い煮汁にまみれた得体の知れぬ切片をひとつ、藍芭は指先で摘《つま》み上げて口の中に入れてみる。  呻《うめ》いた。  旨いも不味いもあったものではない。満面に脂汗が浮き、灼熱《しゃくねつ》とも激痛ともつかぬ何かに舌を圧倒されて気が遠くなった。白酒をあおり、椅子《いす》に身を沈み込ませて大きく息をつく。一体、こんな物を食って涼しい顔をしていられるのはどういう神経の持ち主なのだろう。  まったく—— 「——馬鹿につける薬はねえよな」  臓物の欠け皿を見つめて、藍芭はひとり呟く。        *  二度目は腹が痛いの日が悪いのと言い訳をしてどうにかお引き取りを願った。しかし三度目で言い訳の種も尽き果て、四度目ともなると最初から殴られる覚悟を決めていた。気を確かに持ってあらかじめ身構えてさえいれば、来るとわかっている木剣の一撃というのは存外に辛抱《しんぼう》がきくものだ。始めの合図と同時に唸《うな》りを上げて飛んできた上段を度胸一発額で受けて、半分以上は演技でなくその場にどうと倒れ伏して震え声で参ったを告げたのだが、一体何がお気に召さなかったのか、「ちがう! ちがうー!!」と叫びながらぐるぐる回って帰っていった。 「たのも——————————————う!!」  つまり、これで五度目である。  弟子連中が面白がっていたのも初めのうちだけだった。近頃では、迷惑千万とでも言いたげな視線が声の主よりもまず涼孤《ジャンゴ》に集中する。給金を貰《もら》ってるわけでなし、涼孤としても道場通いはしばらくやめにしようかと思わぬでもなかったのだ。しかし、この暑い最中《さなか》に汗だくのまま捨て置かれた稽古着や糞壺《くそつぼ》の磨かれない厠《かわや》はたちまち猖獗《しょうけつ》を極めるに違いなく、これを機に雑務は後輩どもにやらせてあの役立たずは金輪際|馘《くび》にしろなどと言い出す輩《やから》が出てこないとも限らない。いざとなったら言愚《ゴング》の如《ごと》き何をどう主張したところで屁《へ》の突っ張りにもなるまいとわかってはいても、涼孤はこの道場から追い出されたくはなかったし、そのためには下男仕事もそう簡単に休むわけにはいかないのだった。  しかし、門前の少女はそんな事情などまったくお構いなしである。  豪勢な稽古着に分不相応な木剣という出《い》で立ちもいつもと同じだ。  名前は——  何だっけ、 「たのもう」  どうやらそれが武人の挨拶《あいさつ》であると誤解しているらしい少女は、弱り果てて天を仰いでいる涼孤を前にもう一度そう言った。 「——悪いんだけどさ、何度来られても、」 「問答無用。今日こそ立ち合ってもらうぞ」  木剣の切っ先をびしりと鼻先に突きつけられて涼孤は途方に暮れる。背中に刺さる弟子たちの視線が痛い。これ以上稽古の邪魔をさせるわけにはいかないし、今度という今度は何としてもケリをつけなくてはいけないと思う。  ——よし、  から元気をかき集める。腹を括《くく》る他はない。はっきり言わなければいけないのだ。女の子を相手に木剣試合などできないし、これ以上道場に押しかけられたら下男としての自分の立場も危うくなるのだということを、どんなに時間をかけてでもきっちりと説明するしかない。 「——じゃあさ、」  再び天を仰ぎ見る。夕空の色の按配《あんばい》は、夜の到来まで未だ道半ばといったところだ。 「稽古が終わるまでまだしばらくかかるし、ぼくもまだ仕事が残ってるから。それが済むまで待ってて」  む。少女はしばし黙考し、疑わしそうな上目遣いを涼孤に向けて、 「——よもやお主、また何ぞ企《たくら》んでおるのではあるまいな?」 「そ、そんなことないよ」  立ち合うつもりはないけど——とは無論言わずにおく。 「——まあよかろう。その命、しばし預けておいてやる」  むっつりと涼孤を睨《にら》んでいた少女は不意に鼻息を荒げて、 「妾《わらわ》は待つ間の暇潰《ひまつぶ》し稽古の見学でもさせてもらうわ。何ぞ不都合はあるまいな?」  え。  どこか他所《よそ》で茶でも何でも飲みながら待っていろ、と言ったつもりだったのだ。  不都合も何も、部外者に無断で練習をのぞき見られて喜ぶ門派はどこにもないし、事と次第によっては半殺しの目に遭わされてもおかしくはない。人材育成の場である講武所はそうした閉鎖性がまだしも薄い方ではあるが、これまでは笑って見逃してくれていた弟子たちの中にもそろそろ堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切らす奴が出てくるかもしれない。 「あ、あの——」  しかし、今さらごねても話はどこまでこじれるか知れたものではなかった。おろおろと弟子たちの顔色を窺《うかが》う涼孤を尻目《しりめ》に少女は意気揚々と練武場へ足を踏み入れる。そこでくるりと振り返って、 「逃げるなよ」 「——う。うん」  足りぬ背丈で伸び上がるようにして顔を寄せ、少女はどこか嬉《うれ》しそうに凄《すご》むのだった。 「妾の目の届くところにおれ。他の者との密談もまかりならん。厠にもついていくからな!」  この時間、正門のすぐ脇《わき》にある長椅子はちょうど木陰の中にあって、練武場の稽古風景を見物するには絶好の場所だった。  さすがに貴人と同じ椅子には座れないと思ったし、いつ起こるとも知れぬ悶着《もんちゃく》に割って入るには一歩退いて立っている方が都合が良かったのに、いいから座れと強引に腕を引かれて肩も触れ合わんばかりの近間に腰を下ろしてしまう。殴り込みも早五度目であるが、こういう状況はさすがに初めてのことだ。薄く汗ばんだ首筋や二の腕に微《かす》かに浮いた産毛《うぶげ》を横目で盗み見ていると、容姿がどうこうよりもまず、我が身と引き比べてこうも違うかという圧倒的な清潔さを否応なく意識させられた。着たきりのぼろ着が隣にいたら相当に臭《にお》うのではないかと気が気ではなかったが、かと言って急に腰を浮かせて距離を取るのもどうかという気がする。やはり、毎日風呂に入っているのだろうか——ふとそんなことを考える。毎日風呂に入れるというのは、一体どれほどの金持ちなのだろう。  最初は何やら物言いたげな風だった弟子たちも、すでに少女の存在など頭から無視して稽古を再開していた。これは謂《い》わば逆説的な侮辱《ぶじょく》であり、道場破りとして遇するに値しない相手だと公言されているようなものであり、要するに少女は完全に舐《な》められているのであって、いやしくも蚊母の木剣など振り回して武人を気取るのであれば逆に怒り出さなくてはいけない状況である。  少女が「にははは」と笑った。 「わ」  そのあまりの唐突《とうとつ》さに涼孤はぎょっとして、 「なに?」  少女は、むふ、くふふふと肩を震わせ、 「——あのな、あのな、伊仁《イニ》は寝歩きの癖《くせ》があるのだ」 「誰?」 「あれはすごいぞ。行儀指南が性懲《しょうこ》りもなく住み込みに来るというのでな、皆に黙っておれときつく申し渡しておいたらな、厠の前で腰を抜かして逃げ帰ってしまいよった」あーははは。  何だかよくわからない。  わからないが笑い声はまずい。稽古を見て笑っているのだと誤解されかねない。付近の弟子たちが幾人か手を止めて、剣呑《けんのん》な目つきでこちらを見ている。少女の稽古着の裾《すそ》を引き、 「馬鹿、静かにしろってば」  ようやく笑い止んだ少女は、ふう、と退屈そうなため息をついて、 「——それにしても、どいつもこいつも大したことのない奴ばかりじゃな」  お前が言うな、と涼孤は思う。 「ねえ、頼むからもう少し声を落としてよ。稽古の邪魔になるからさ」 「いちいち細かいのう。話し声の如きが邪魔になるような稽古など、いくらやったところで腹が減るだけ無駄なことじゃ。ところで、先ほどから考えておったのだが——」  少女は練武場を右から左へと見渡して、うん、とひとつ頷《うなず》いた。 「——なるほどな、これが地の利という奴か」 「は?」 「ほれ、お主も憶えておろう。最初の立ち合いだ。妾はちょうど——」  少女は練武場の一角を指差して、 「脂性のでぶが圧腿《あったい》をやっておる、あのあたりで足を滑らせて思わぬ不覚を取った。その次は向こうの、根元に椅子が置かれている木だ。あの上に逃げ延びてしまったお主を、妾はとうとう最後まで仕留め切ることができなんだ」  確かに事実を違《たが》えてはいないのだが、まるであの追いかけっこが少女有利のまともな勝負であったかのような言い草である。 「——それで?」  少女は得意満面の笑みを浮かべる。 「お主はこの道場の者であろう。ならば、地面の方々に足を滑らせやすい場所があることも先刻承知で、そのあたりをうまく避《さ》けつつ走ることもできよう。しかし妾はそうはいかん。お主はこの稽古場に生えているどの木なら素早く登れるかもわかっておろう。しかし妾はそんなことは知らん」  少女はさらに鼻息を荒げて、 「だから、お主をあらかじめ木から遠ざけるような位置を取ることも叶《かな》わず、木の上に逃れようという意図を察してからでは防ごうとしても間に合わん。あの木の根元にある椅子が格好の踏み台になることも、下から投げつけるのに手ごろな石があたりに落ちておらんことも、お主にはわかっていたはずだ」  ——そ、そうかなあ。  細かく見ていけば少女の言うことも成り立つのかもしれないが、少なくとも涼孤自身としてはそこまで深く考えていたという実感はない。 「つまり、お主の縄張りに出向いた時点で妾の不利は決まっておったのだ。つまり、仕留め切れなんだのは腕の差ではないということだ。覚悟せよ、次は同じ手は食わんからな」  なんだ、結局それが言いたかったのか。  涼孤は曖昧《あいまい》に視線を逸《そ》らす。そんな得意げな顔で話すことでもないだろう、というのが正直な感想だった。「地の利」などと言うとご大層だが、要はそこらでちゃんばら遊びをしている子供でも口にしそうな理屈ではないか。誰かの入れ知恵をそのまま口にしているという風でもあるし、憶えたての斬新《ざんしん》な考え方を人に開陳したくて仕方がないのかもしれない。 「最初の日と言えばもうひとつ、あの禿《は》げは今日もおらんのか?」 「え?」  誰が禿げ? 「ほれ、妾が初めてここへ来た日に、門前で挨拶をしてきたつるつる頭がおったろう」  ああ、蓮空《デクー》のことか、 「——すごいな、よく憶えてるね」 「あれ以来、いつ来ても姿を見かけんようだが、あの男がこの道場の師範と違うのか?」  意外だった。  やることなすこと滅茶苦茶《めちゃくちゃ》なようでいて、どうやらこの少女は結構人を見ているらしい。  下々の者に対する配慮——と言ってしまえば少々聞こえは悪いが、涼孤は素直に感心してしまった。初日に一度顔を合わせたきりの男の顔を記憶しているのみならず、以降の男の不在にも気づいているというのは大したものだと思う。少女の家が一体どういう悪事で財を成したのか知らないが、家業を引き継ぐなりして何か人の上に立つ仕事をすれば、いずれ八方に目配りの利く女主人として成功するのではないかという気がする。  まさしく明察の通り、ここ最近、蓮空は道場に一度も顔を見せてはいない。  少女が初めて道場に殴り込んできたのは、かれこれ半月近くも前のことになる。一日二日ならともかく、あの稽古熱心な蓮空がこれほど長い間道場を空けるなどかつて一度もなかったことだ。弟子たちの多くは口うるさい奴がいないのを幸いと羽を伸ばしている感すらあって、事情を尋ねても詳しいことは知らないと言う。様子を見に行こうかと何度も思ったのだが、やはり自分のような者が訪ねていくのは外聞が悪いのではないかと気が引けて、今日は来るだろう明日は来るだろうの繰り返しでずるずると現在に至っていた。 「——さあ、どうしたんだろ。仕事が忙しいのかな」 「仕事? 講武所の師範であればそれが仕事であろう?」 「いや、あの人は——」  普段は船着場の蔵屋に詰めてる夜回りのおっさんだよ——そう言いかけたとき、木剣を手にゆっくりと近づいてくる男の気配に気づく。卯人にしては色の薄い髪、起伏の乏しいつるりとした顔にちんぴら然としたうすら笑いを浮かべ、男はいかにも癇《かん》の強そうな細い眼《まなこ》で涼孤を見下ろして、 「——なんだよ、言愚がまったくいい身分じゃねえか」  咄嗟《とっさ》の言い訳を口にするよりも早く、黙れ、とばかり木剣の先で肩を小突かれる。 「よお、おれ今うんこしたからさ、ちょっと糞壺からはみ出てちまったが舐めて磨いといてくれや。糞虫には糞虫らしい働きをしてもらわねえとな」  この手合いをいちいち嫌っていたら、涼孤はとても今日まで生きてはこられなかった。  だから、いま目の前にいる背守《セス》という男のことを涼孤は決して嫌いではない。蓮空、面弟《マンデ》と並んで�一刀の朱風《スーファン》�亡き後の三十六番手講武所を取り仕切る「兄貴分」の一人である。以前はもっと番手の若い講武所にいたらしいという噂《うわさ》も、あまりの素行の悪さ居場所を失《な》くしてここまで落ちてきたのだという話も多分本当なのだろう。 「——あ、はい。すぐやります」  木剣で再び肩を小突かれ、涼孤は背筋を伸ばして答えた。  まさか本当に厠の床を舐めるつもりはない。しかし、少女を無断で道場に招き入れたことがそもそも武門一般の常識にかからぬ行為ではあったし、その挙句《あげく》に練武場で延々と無駄話などされてはいい加減|目障《めざわ》りなのだという怒りにもそれなりの正当さはあると思う。女の前でこれほど屈辱的な言い方をされて黙っておれるか、といった類の矜持《きょうじ》も涼孤は一切持ち合わせてはいない。それでも、長椅子から立ち上がりかけてふと躊躇ったのは、傍若無人極まるこの少女をここに残していったらどんな面倒が巻き起こるかわからないと気づいたからだった。  杞憂《きゆう》だった。  手遅れだった。 「無礼者め。手前でたれた糞など手前で掃除するがよい」  男ばかりの道場にあってまことに耳慣れぬ女の声である。果たして練武場のほぼ全員が手を止めてこちらを振り返った。訝《いぶか》しげな視線と囁き声が交錯し、それまでの投げやりな無視が敵意のこもった注視へと次第に裏返っていく。背守はしばし少女の言葉を吟味して、まるで幼子に語って聞かせるかのような口調で、 「お嬢ちゃんよ。あんたの家だって厠の掃除は下の者にさせるだろ? それと同じこった。この道場じゃあな、そこの青い目が糞壺を磨くって決まってるわけよ」  大丈夫だ。  まだどうにかなる。  どうにかしてみせる、だからお前はもう喋《しゃべ》るな——というつもりで掴んだ腕を、少女は意外なほどの力で振り解《ほど》く。蚊母の木剣を握り直して立ち上がり、背守を真正面に見据えて不敵な笑みさえ浮かべ、少女はどうにもならないひと言を昂然《こうぜん》と口走った。 「そう聞けばなおのこと筋が通らんな。お主も武人の端くれであろう、武人の上下《かみしも》は腕の順ではないのか?」  背守は一瞬、少女の言わんとすることが理解できなかったらしい。  呆《ほう》けたような表情を浮かべ、その視線が少女から涼孤へ、涼孤から少女へと移動して、緩《ゆる》みきった口元から「ああ」という理解の呻きが漏《も》れる。鼠《ねずみ》のそれにも等しい理性が背守の脳裏から完全に抜け落ちるまであと数瞬の猶予《ゆうよ》に違いなく、そこから先までは血を見るまで到底収まりのつかない暴力の出る幕だった。それでも少女は一歩も退かず、凛《りん》と伸びた背筋には怖気の片鱗《へんりん》すら見当たらない。背守の額に小指ほどもある血管が蠢《うごめ》き、しかし口元には焦点の定まらぬ笑みがへばりついたまま、何気ない動作で前に出た左足が踏み込みの軸となり、木剣を握りしめた右腕に獰猛《どうもう》な力が膨れ上がった瞬間、  凛と伸びた背筋のど真ん中を、涼孤は力任せに蹴《け》り倒した。  悲鳴も上げず受け身も取れず、少女はまるで踏み破られた戸板のように、それは大層な勢いで顔面から地べたに激突して大の字に這《は》いつくばった。すぐさま身を起こし、くるりと背後を振り返り、顔中を擦《す》りむいた痛みに気づいている風さえなく、ただただ目を見開いて涼孤を見つめ、 「——な、」  右の鼻の穴から鼻血がひと筋、 「何をするかあっ!」  涼孤は傍らに転がった木剣を拾い上げ、少女の奥襟《おくえり》を猫の子のようにぐいと掴む。 「な、何の真似《まね》じゃ!? こら、放せっ! 放せと言うておる!」  少女がいくら身をもがいても涼孤の右手はびくともしない。背守さえも呆気《あっけ》に取られて見守る中、涼孤はじたじたばたばたと暴れる少女を引きずって歩き、正門の外へと無造作に放り出す。その足元に木剣を転がして冷たく言い放った。 「真面目《まじめ》に相手してやったぼくが馬鹿だったよ。もう二度と来んな」  涼孤が何を怒っているのかわからない——そんな表情が覆《くつがえ》るまでにしばらくかかった。少女は鞠《まり》が弾むように跳ね起きて涼孤に詰め寄る。 「妾は、妾はお主の代わりに言うてやったのだぞ!」 「大きなお世話だ! どこの御令嬢様か知らないけどな、いつまでも調子に乗っていられると思ったら大間違いだぞ! 身分を傘《かさ》に着て人を舐めるのもいい加減にしろ!」  他はともかく、最初のひと言は涼孤の本心だった。  あまりの言い草にしばし絶句していた少女であるが、やがて湧《わ》き起こる烈火の如き怒りに擦り傷だらけの顔を真《ま》っ赤《か》に染めて、 「——この恩知らずめが! 庇《かば》い立てしてもろうた礼がその言い草か!」 「やかましい! その足で歩けるうちにとっとと帰れ!」  そこから先は、まさしく子供の喧嘩《けんか》だった。  練武場の面々はひとり残らず毒気を抜かれたような顔をして、ぎゃあぎゃあと互いを罵《ののし》りながら取っ組み合う二人の姿を見守るばかり。たまたま通りかかった近所の桶屋《おけや》の親父が間に割って入ろうとして手もなく撥ね飛ばされ、そのわずかな隙《すき》に少女は身をもぎ離して素早く距離を取った。双方の捨て台詞《ぜりふ》が矢のようにすれ違う。 「もう知らん! それほど厠の掃除がしたいなら好きにするがよい! お主など、糞壺の中に収まって身を縮めておるがお似合いじゃ!」 「ばーかばーか! 尻|拭《ふ》きまで人にしてもらってる奴が偉そうな口を叩《たた》くな! とっとと家に帰って爺やにおしめでも替えてもらえ!」  少女はあまりの口惜しさにばたばたぐるぐる回転する。それはまるで、珍奇な習性を持つ動物の子供がかんかんに怒っているようにも見えた。踵《きびす》を返して走り去っていく後ろ姿を目がけて木剣を投げつけ、涼孤は肩で息ををしながら頬《ほお》の引っかき傷を拭《ぬぐ》った。傍らにへたり込んでいる桶屋がぽつりと、 「——ものすげえな。よお、ありゃあ一体どこのお嬢だい?」  知るか——そう答えようとして、涼孤は目を閉じて震えるため息をつく。  まただ、これで五回連続だ、  あの子の名前を聞くのを忘れた。  挙句にこの始末である。よもや六回目があるはずはなかった。        *  例えば、ここにひとりの禿《はげ》がいるとする。  そんじょそこらの禿とはものが違う。十と七年の昔、来候地方にて熱病に猛威を振るった折に辛くも命と引き換えたが故《ゆえ》の禿である。おかげで十は老《ふ》けて見られるが、その十年も熱病にくれてやったのだと今では諦めもついている。二十と二歳、守神は未、剣に長じ、今日の三十六番手講武所では実質上の師範代としてそれなりに一目も二目も置かれている禿である。功成った暁《あかつき》には軍門へと身を投じ、戦場にて剣技に更なる磨きをかけ、ゆくゆくは卯国にその人ありと称《たた》えられる武人になりたいと、半ば冗談で、しかし半ば本気で禿は願っている。  さらに、ここにひとりの言愚がいるとする。  そんじょそこらの言愚とはものが違う。言うも愚か——とは黙ってさえいれば卯人と見分けのつかない黒い目の連中のこと、その青い両の目をくりぬきでもしない限りは逃げも隠れもできない言愚の中の言愚である。  講武所の下男を務める傍ら、市場の片隅で似顔絵を描《か》いて辛くも日々の糊口《ここう》を凌《しの》ぐこの言愚をしかし、件《くだん》の禿は憎からず思っているとする。戯《たわむ》れに見舞う不意打ちはある種の親愛の表現でもあり、虐《いじ》められることに慣れきってすっかり負け犬根性が染みついている言愚自身の発奮を促すつもりでもあった。戯れではあるにせよ、毎度毎度の不意打ちをものの見事にかわしてみせる言愚を禿はそれなりに買っていたからだ。きっちり精進さえすりゃあ、こいつは俺様の次の次ぐらいには強くなる——半ば冗談で、しかし半ば本気で禿はそう思っている。  そして、ある事件が起きる。  発端は、剣術にかぶれたと思《おぼ》しきひとりの少女が、なぜか言愚を名指しで道場にのり込んできたことだった。少女は無理無体に試合を迫り、言愚をとうとう木の上にまで追い詰めたところで家人に引き取られていった。それだけなら単なる笑い話であって、事実、その場で見ていた他の弟子たちは今でもそう思っているだろう。  しかし、禿は違った。  もつれ合いの中で言愚が放った肘の一撃を、禿はその目で見てしまったのだ。  その日の稽古がお開きになる頃には、見よう見まねの一打であろうと禿も納得していた。船着場の蔵屋では仕事仲間と馬鹿話をして笑い合うことさえできた。言愚の一撃がふと瞼《まぶた》の裏に蘇《よみがえ》ったのは朝番に見回りを引き継いで帰る道すがらのことで、禿はそれを家に持ち帰ってじっくりと反芻《はんすう》してみることにした。  翌日、禿は稽古を休んだ。  仕事にも行かなかった。  その日を境に、言愚の一撃のこと以外を禿は考えられなくなっていった。夜は眠れず、食事もろくに摂らず、時おり発作でも起こしたかのように物に当たり散らし、庭に飛び出して知る限りの套路を倒れるまで打ち続けても、胸中にわだかまる疑惑は少しも退いてはくれなかった。  自分が今まで蛇《へび》だと思っていたのは、実は、巨大な龍《りゅう》の尻尾《しっぽ》ではないのか。  あまりに恐ろしいその可能性を、禿は直視することができない。その可能性から目を逸らし続けるためには、周囲の誰もが瞠目《どうもく》するような大事を成しとげて自分自身を納得させるより他にない。  このままでは駄目だ。  一体、いつから自分はこうなってしまったのか。  禿は考える。二十と二歳、剣をもって立身を志す者としてはもう決して若くはない。未だ修行が足りぬと、未だ勝負の時にあらずと毎日思って、ふと気がついたら三十六番手講武所の最古参のひとりとなっていた。口を開けば途方もない夢を語り、命金を免罪符にいつまでも腕を磨いていられる永遠の半人前。そんな立場が、まるでぬるま湯の中のように居心地がよかったのだ。  いつか何とかなる——ずっとそう思っていた。  いつかどうにかする——ずっとそう思っていた。  しかし、その「いつか」とは一体いつなのだろう。  今までかかってどうにもならなかったのなら、ひょっとすると、この先もどうにかなることなどないのではないか。  それは、辛《つら》い認識だった。  血反吐《ちへど》を吐くような認識だった。  そう自分自身に認めさせるのに半月かかった。そして、一度そうと認めてしまった禿の「いつか」とは、もはや待った無しの「今日」でなくてはならなかった。遠い遠い道のりを歩き続けていたつもりで、自分はいつしか袋小路に立ち竦んでいたのだと禿は思う。ここには何もないし、どこにも行けないし、誰も手など差し伸べてはくれない。もう充分だ。  これ以上待っていてはいけないのだ。  その五角銭を、禿はまったくの偶然で見つけた。主の八つ当たりに荒れすさんだ部屋の片隅で、その五角形の銅銭はあたかも禿の進むべき道を暗示するかのように、格子窓から差し込む朝日を浴びて鈍く輝いていた。  五角「銭」と名が付いてはいるし、確かに銅の塊《かたまり》には違いないので、銭秤《ぜにばかり》を用意している商人なら対価として受け取ってくれるかもしれない。  しかし、一般的な意味合いにおいては、贈答品として用いられる呪物《じゅぶつ》の一種である。単なる銅の塊として量り売りをするよりも、そうした性格を持つ精巧な細工物としての価値の方が高いだろう。  なぜこんな物が自分の家に落ちているのかと禿は怪しむ。——いや、確か、武術指南に招かれた師範の供を務めた折に酔狂で買い求めたのではなかったか。あるいは、招聘《しょうへい》先で持たされた礼物の中に混じっていたのか。それとも、これが自分の持ち物であるというのはまったくの思い違いで、このボロ家の前の住人の忘れ形見が何かの拍子に出てきたのか。  禿は床に膝《ひざ》をついたまま、五角銭を摘み上げて朝日に翳《かざ》す。表面には禿の護神でもある未の浮き彫り、裏面を返すと、五つの角ごとに刻まれた五つの文字が見て取れる。頂点から左回りにそれぞれ「大」「登」「比」「第」「武」。  これらの五文字は、頂点の「大」から五芒星《ごぼうせい》をひと筆書きする順序で読むのが正しい。その要領に沿って入れ替えてみると、文字の並びは次のようになる。  ——大比武登第。        *  本当は、こういう日にはじたばたせずにどこかで昼寝でもしているのが一番なのだ。  虫の知らせとでも言うのだろうか、人相書きの口を求めて手近な番所をいくつか巡っているうちに、今日は駄目だ、とわかる日がたまにある。この手の予感が外れたためしはなく、意地になって足を棒にしてみたところでろくなことにはならない。  だからと言って、似顔絵描きの茣蓙《ござ》を広げてみても大抵はうまくいかないものだ。今日はすでに仕事にあぶれています——という空気が知らず知らずのうちに滲み出てしまっているからだろう。同じ品物を商《あきな》う二つの屋台が道を挟んでいるとして、一方は押すな押すなの大繁盛、もう一方では閑古鳥《かんこどり》が鳴いているとすれば、後から来る客の多くはたとえ行列に並んででも前者を選ぶものである。扱う品物の種類や質にまったく差がなかったとしても、貧乏臭い雰囲気というのはそれだけで客を遠ざけるのだ。  ——いや、今日は、それだけが理由でもないか。  涼孤は左目の周りをそっと探ってみる。殴られた後にうっかり眠ると腫《は》れが余計に酷《ひど》くなるので、一昨日《おととい》から昨日にかけては一睡もせずに家に籠《こ》もって絵の道具の手入れをしたり、裏口の敷居に腰かけて目の前のどぶ川に釣り糸を垂れたりしていた。鰻《うなぎ》が二匹釣れたし、腫れもすっかり引いたし、今はもう指先で押しても痛みは感じない。それでも多少の青痣《あおあざ》はまだ残っているのだと思う。それでなくても青い目の周りにおまけの痣などあったらなまじの客は気味悪がって近づいてこなくなるのも道理であった。  常連客というものがまず望めない似顔絵描きの生き死には、一見《いちげん》の客をいかに多く捕まえられるかの一点にかかっている。  涼孤の所場《ショバ》は右の袋の外れも外れ、「炭屋の道」と呼ばれている路地の階段の下である。涼孤はいつも一番下の石段の右端に腰を下ろし、目の前に茣蓙を広げて客用の椅子を置き、右手側に見本の似顔絵を貼《は》り付けた板を立てかけておく。往来に正対せず、階段に背を向けて座るのがこのやり方の肝《きも》だった。これなら椅子がひとつしかなくても客と顔の高さを合わせられるし、正面から来る客を捨てる代わりに、背後の階段を下ってくる客から青い目を一旦は隠すことができる。見本に足を止め、椅子に腰を下ろしてしまってから絵描きの目の色に気づいて席を立つ者は、せいぜい三人に一人くらいのものだ。  そのはずが、今日は客が椅子に座ってさえくれない。  一人だけ、いかにもトロそうな顔つきの中年女が見本に足を止めてくれたが、愛想《あいそ》を言う間もなく逃げられてしまった。  殴られたのが右目だったら往来からはまだしも目立たないのだろうが、階段の反対側に場所を移す程度の自由も涼孤にはなかった。まず番所巡りでケチがつき、左目の青痣に真夏の炎天下とくればもはや三重苦である。茣蓙の四隅に柱を立てて簡単な日除《ひよ》けを張ろうとしたこともあったのだが、まだ出来上がりもしないうちから地回りどもに目をつけられて、屋根つきの売《バイ》をするなら所場代の追加をよこせと言われてしまった。  胸元の汗を拭って大あくびをする。  まだ日は高い。  同じこの場所で同じやり方を続けているうちに、涼孤は背後の階段を下ってくる足音を聞くだけで、男女の別や年齢や、近頃では凡《おおよ》その素性まで判別がつくようになっていた。武術で言うところの「聴勁」に近い行為であるが、涼孤にとってそれは単なる遊びであり、いつまで続くとも知れぬ客待ちの間の暇潰しである。  深く俯《うつむ》いて目と痣を隠しつつ、背後の他人の流れに耳を澄ます。  似顔絵描きという商売において、男の客がつくのはそいつが酒でも飲んでいない限りは望みが薄い。あと十人の女の足音に素通りされたら今日のところは潔《いさぎよ》く茣蓙を畳《たた》もう、道場に戻って長椅子で昼寝でもしようと決めた。たちまち六人の団体に素通りされ、七人目は指をしゃぶる癖もまだ抜けないような子供だったので数に入れないことにして、次に現れた七人目が実に奇妙な足音の主だった。  勢いからして若いことは間違いない。  しかし、男か女か判然としない。  どちらかに賭《か》けろと言われたら女だが、それにしてはひどく尊大な歩き方で、誰かとぶつかりそうになっても相手が先に道を譲るものと信じて疑ってない。そのくせ、幼少の時分に足枷《あしかせ》を嵌《は》められて過ごした時期でもあったのかと思うほどの束縛《そくばく》の気配が滲んでいる。  ——なんだこいつ。  労働と縁のない歩様からしてもある種の貴人には違いなく、しかし貴族や豪商の娘がまさかこうも複雑で極端な足音は持たない。かくなる上は青い目でも何でも晒して顔を見てやろうと思わぬでもなかったが、ここで振り返ったら無礼なほどの近間でまじまじと相手を見上げるような形になりかねなかった。  袖《そで》が触れ合わんばかりのところを、ふわり、と行き過ぎていく気配。  見本に目をくれる様子もなく歩き去るかと思いきや、七人目は不意に踵を返して涼孤の正面の椅子にどすんと陣取った。女であるという予想は当たっていたし、若いという予想も当たっていた。ある種の貴人であるという予想も当たっていたが、それにしてもこいつは稽古着以外の服を持っていないのか。 「たのもう」  あの少女だった。  名前は——  驚きと拍子抜けが交錯して、涼孤はそれ以上物を考えることができなくなった。  しかし少女もまた、涼孤の左目の痣を見るなり口元を引き攣《つ》らせ、 「——妾は、」  そこで一度言葉に詰まり、少女は足元に視線を逸らしてぶっきらぼうな口調で呟く。 「妾は、そんなに強く殴ったか?」  言わんとする意味を理解するのに一瞬の間を要した。——涼孤の左目の痣が、道場の門前での取っ組み合いの結果なのかと誤解しているのだろう。 「ああ、この痣は別口だよ」  とはいえ、まったく繋《つな》がりがないわけでもない。  一昨日の一件の後、振り上げた拳《こぶし》の下ろし所が見つからない背守から二、三発もらうだろうということくらいは、少女の背中を蹴飛ばしたときから計算の内だった。涼孤にとって、背守の鈍な拳の如きは身をかわすよりも黙ってもらうほうが余程の意識的な努力を必要とする。執念深いその性格は百も承知だったし、後にどこぞで背守と少女がばったりと再開する可能性とてなくはないことを考えれば、相当に無様な腫れ顔を見せて溜飲《りゅういん》をとことんまで下げてもらう必要があったのだ。背守の踏み込みが予想以上に甘く、拳が当たる寸前にこちらから顔を当てに行ったのだが、少女のこの驚きようからすると少々大げさにもらい過ぎたのかもしれない。鏡など生まれてこの方お目にかかったこともなく、ここ数日は気軽に物を尋ねられそうな相手とも会っておらず、今の時点でどれくらいの痣が残っているかは経験から推測するより他に手がなかった。 「——いや、痣もだが、」  少女は再び涼孤の顔に視線を戻して、恐る恐る、 「お主、左目が赤いぞ」  ああそう、としか思わない。目玉の中で出血が起こって白目の部分が赤くなっているのだろう。道場の弟子連中が言うところの「目の鼻血」というやつだ。殴られることにかけては人後に落ちぬ経験を誇る涼孤からすれば、この程度のことは痛みがない分だけ指先のささくれにも劣る些事《さじ》である。 「大丈夫だよ、しばらく放《ほ》っときゃ治る」  それに、怪我《けが》のことを言うならお互い様だった。実際のところ、少女の方もなかなかの御面相である。涼孤に蹴り倒された際にこしらえた顔中の擦り傷に薬布をべたべたと貼りつけているのだ。 「なあ、一体誰にやられたのだ? やはり、妾のせいで仕置きをされたのか?」  ——へえ、事情を察するくらいの頭はあるのか。  それとも、これまた誰かの入れ知恵か。「やはり、」という言い方の背後に何者かの存在を見て取るのは勘ぐりすぎというものだろうか。 「なあ、隠さず申せ。——さてはあいつか? 厠の掃除をせいと言うてきた、あいつにやられたのか?」 「うるさいな、関係ないだろ」 「——か。関係は、ないことは、ないであろう」  俯いて口を尖《とが》らせ、少女はぐずぐずと呟く。 「ないさ。どけよそこ、商売の邪魔だ」  必要以上に冷たい言い方をしていると自分でもわかっている。涼孤も内心では動転しているのだ。——まったく、どうしてこいつは夜討ち朝駆けの殴り込みのような登場しかできないのだろう。  昨日は物を考える時間があった。  貧乏暇無しとはよく言ったもので、丸一日の休みなど一体何年ぶりのことだったろう。絵の道具の手入れをしながら、裏手のどぶ川に釣り糸を垂れながら何度となく繰り返した自問自答の行き着く先は、ただひとつの結論だった。  結局のところ、自分は、保身が故に行動したのだと思う。  無礼千万な口をきく少女を、皆の前で蹴り倒してみせること。それが「自分は道場の側に立つ人間である」という証明であり、「自分に関する少女の発言は何の根拠もない世迷言《よまいごと》である」という証明でもあったのだ。説得力を増すためには少女にも鼻血のひとつくらいは出してもらわなければならなかったし、わざと受け身が取れないような角度で蹴った。  あのまま放っておいたら、背守は間違いなく少女を血祭りに上げていただろう。  それまでの少女の暴言は完全に一線を踏み越えていた。血の気の多い手合いは何もあの場に背守ひとりではなかったし、他の連中も止めに入ろうとはしなかったと思う。そして、少女を始末したその矛先《ほこさき》はこちらへと向けられたはずである。袋叩きで済むことならいくらでも耐えてみせるが、自分の唯一の居場所を失いたくはなかった。  少女の身の安全を第一に思うのなら、背守を蹴り倒せばよかったのだ。  機先を制して問題に自らけりをつけることで、自分は三十六番手講武所における下男としての立場を確保したのである。その目論見《もくろみ》はすべて計算通りに運んだ。背守から頂戴した拳骨《げんこつ》はたったの一発。取っ組み合いで少女に引っ掻かれた頬の傷など物の数ではない。当然の帰結として、少女とはもう二度と顔を合わせることはないのだろうと思っていたし、合わせる顔などないとも思っていた。  必要以上の冷たい言い方も、少女の顔をまっすぐに見ることができないのも、すべては罪悪感のなせる業《わざ》だった。  ところが—— 「——妾は、妾は仲直りしに来てやったのだぞ!」  少女は椅子をがたがた揺らしながら言い募る。勝手なものだ、「勝負しろ」の次は「仲直りしろ」か。鼻で笑った涼孤の腹の内を見て取ったのだろう、少女は膨れ面《つら》で俯いて、 「し、仕方がなかろう。仲直りせんことには、お主はきっと勝負を受けてくれんもの」  涼孤は無言で手元の商売道具を片づけ始めた。鉄壁の無関心を装《よそお》いつつも、つい少女の顔をちらりと盗み見てしまう。べたべたと貼られた薬布は切り方が乱雑で、少女が泣いて帰ってきたときの屋敷の者たちの慌てぶりが目に見えるようだった。自分なら唾《つば》もつけないような擦り傷でも、ついた先がお嬢様のお顔となれば大変な騒ぎになったはずである。  ふと、後片づけをする手が止まる。  一体何があったのかと、少女は屋敷の者たちに問い詰められたはずだ。  何も遠慮することはない。さる道場で狼藉者《ろうぜきもの》たちに取り囲まれたと、不届きな言愚に背中を蹴られたと正直に言えばいいのだ。酔狂の剣術かぶれに豪勢な稽古着や木剣をぽんと買い与えられるほどの名家名門であれば、面子《メンツ》に関《かか》わる問題をよもや放ってはおくまい。その政治力や影響力が報復へと向かったが最後、場末の講武所を取り潰すなど造作もあるまいし、言愚を一匹殺すのは鼠を一匹殺すのと同じことである。  しかし、実際には何事も起こらなかった。  得物を手にしたやくざ者の集団が涼孤の家に火を点《つ》けに来るようなこともなかったし、番所巡りの前に立ち寄った道場には普段と少しも変わった様子はなかった。  理由はひとつしかない。  家人の追求に、少女がだんまりを通してくれたからだ。  そこまで予想して涼孤は少女の背中を蹴った。しかし、その予想を裏打ちしていたのは、少なくとも「計算」などと呼べるようなものではなかったと思う。それはある種の「信頼」であり、さらに言えば、ある種の「甘え」ではなかったか。 「——忘れ物を取りに来たんだろ?」  まるで名前を呼ばれた忠犬のように、少女は涼孤の声に反応してぱっと顔を上げた。  涼孤はゆっくりと身を屈《かが》め、茣蓙の隅に巻き込んで隠しておいた蚊母の木剣をぞろりと引き出した。刃が自分に、切っ先が下に向くように右手一本でくるりと柄《つか》を握り直して無造作に投げ渡す。わ、わ、とお手玉をしつつも少女はどうにか木剣を受け止め、目を丸くして涼孤に向き直り、 「——お主、ずっとこれを持ち歩いておったのか?」 「うるさいな。つまり、その、番所に届けようと思って持ってきたんだ。もっと大事にしないと罰当たるぞ、そんな金目の物を忘れていかれたらこっちも物騒で仕方ないよ」  少女は手の中の木剣をまじまじと見つめ、 「これは——そんなに大層なものなのか?」  少女の物知らずぶりにもいい加減慣れていた涼孤であるが、この界隈《かいわい》ならそれ一本で家が建つと説明しても、今度は周囲の貧相な家並が果たしてこの少女にどこまでの説得力を持つかという問題になってくる。 「——最初に屋敷に来た剣術指南が、妾が何も道具を持っておらんというので馴染みの武器商を呼んでくれたのだ。代物は取らんからどれでも好きなものを選べと言うのでずいぶん迷ったのだが、これが一番振り抜けがいいような気がしてな。見てくれも何やら黒っぽくてぼろっちい感じがしたので、只で貰うなら安い方がよかろうと思うたのだが——そうか、高いのか。悪いことをした」  そこで少女は顔を輝かせて身を乗り出す。 「なあ、お主の木剣はどんなやつだ?」 「え? あ、いや、ぼくは木剣なんか持ってないし——」  む。少女はあらぬ誤解をして言葉を詰まらせ、 「——妾も、妾も木剣はもうすぐ卒業なのじゃ!」  ため息をつく。干紙の束を丸めて竹筒に入れ、湿気を防ぐために綿木の栓をしっかりとねじ込む。硯《すずり》を掃《はら》って筆台の蓋《ふた》を閉め、背負い箱の所定の穴に差し込むと、外した引き出しを元に戻すような具合でぴたりと納まった。 「こら、何を帰り支度などしておる!?」 「今日は、もう店じまいだから」  意図していた以上に無愛想な声が出てしまった。別に、怒っているわけでもへそを曲げているわけでもないのだ。事は純粋に涼孤の側の問題であって、少女に対してはもう含むところなど何もない。この再開はまったく予期せぬ事態であったし、未だ罪悪感の尻尾のようなものが腹の底でごろごろしてどうにも尻の据わりが悪いのである。どうしても話をしろというのであれば、ともかく一度引いて態勢を立て直してからにしたい。 「つれないことを言うな! まだ話は終わっておらん!」  しかし、少女も簡単に納得してはくれなかった。おろおろと周囲を見回して、まことに似合わない台詞を口走る。 「——なあ、それでは、どこか気の利いた店で茶でも飲まんか?」  涼孤は俯いて苦笑を隠す。先にもちらりと感じた疑惑は一気に確信へと変わっていた。もう間違いはない。少女の背後に、この手打ちの絵図を描いた何者かが確実に存在する。涼孤は同情を禁じ得なかった——この少女に手とり足とりで物を理解させるのはさぞかし骨の折れる仕事だったろう。 「生憎《あいにく》と貧乏暇無しでね、これから番所を巡って仕事を探さなきゃ」  口から出任せであったが、本当にそうしてもいいと思った。仕事が取れる気はまったくしないが、ここでいつまでも居心地の悪い思いをしているよりは大分ましかもしれない。 「早くどいてよ。その椅子も片づけるから」  うぅ、ううう。  椅子の座面を両手でぎゅっと握り締め、少女が深い唸り声を上げて恨めしそうに睨みつけてくる。ぐるぐる回るのもそうだが、こういうところも何だか動物じみていると涼孤は思う。 「——貧乏暇無しと申したな」 「え?」 「その逆もまた真なりか?」  それは、まあ——と呟く。金のある奴はもちろん暇もあるだろう。 「ならば、これで文句はあるまい!」  少女はやおら稽古着の懐を探り、細長い板状の物体をつかみ出して茣蓙に叩きつける。硬く重い音を立てて茣蓙に弾み上がったそれが一体何なのか、貧民街育ちの目は咄嗟に見て取ることができなかった。  銀流だった。  しかも二枚。  追い討つように銅滴の詰まった財布が投げ出された。 「今日一日、銀流二枚でお主を買い上げる! 前渡しでまず銀一流、妾に付き合った後でもう一流! 財布の銅滴は祝儀じゃ! これでもう鼻血も出んぞ!」  雨の滴《しずく》が集まって川の流れとなり、川の流れが集まって海に注ぐ。  銅滴は分類上の別名を粒銭《りゅうせん》ともいう。その名の通りの銅の粒であり、鋳造《ちゅうぞう》された時代の卯王の御名《ぎょめい》の一文字が上部に彫り込まれ、据わりを良くして転がらないようにするために底面が平たく成型されている。この銅一滴が千粒あつまると銀一流と同じ価値になる。棒銭《ぼうせん》に分類されるが、棒よりむしろ細長い板という表現の方が近い。長さは大人の手で握って両端が少し余るくらい、表面には川の流れを表す三本の波線が刻まれ、裏面には卯室が認めた正式な貨幣であることを示す刻印がある。銀一流が千本集まれば金一海となるが、ここまで来ると一般的な意味での貨幣とは言えないかもしれない。顔よりもひと回り小さい金の円盤で、卯室とその周辺王朝では主として外債の決済に使用される。銅滴は平民の貨幣、銀流は貴族の貨幣、金海は国家の貨幣——と言われる所以だ。  貧民街の最底辺を這いずり回り、飢《う》えの果てに野犬の死骸《しがい》に湧いた蛆虫《うじむし》さえ口にしたことのある者たちにとって、そもそも銅千滴という価値がすでに雲上のものであり、その具体である銀一流に至ってはほとんど想像上の存在に等しい。貧民街の外に毎日働きに出ている涼孤はそれでもまだ見聞が広い方だが、その涼孤ですら、銀流をこれほど間近で目にしたことなど指折り数えるほどしかなかった。  しかもそれが二枚である。  気が遠くなる。 「——ば、馬鹿! 大きな声出すな!」  銀がどうしたという少女の叫び声に、炭屋の道の往来が一体何事かと足を止めていた。ようやく我に返った涼孤は慌てて腰を上げ、少女の傍らに膝をついて周囲の視線から茣蓙の上の有様を身体で隠す。 「そんなもの早くしまえ! 誰が見てるかわかんないんだぞ!」  声を潜めて言うのが関の山だった。銀流に手を触れることすら躊躇われ、それらを少女の胸元に押し込むなど倍も畏《おそ》れ多い。涼孤の口調には懇願の響きすらあったが、少女も退くことを知らなかった。 「それが納まるべきはお主の懐であろう。一度出したものを引っ込めるなど沽券《こけん》に関わる。さあ取れ、一流は前渡しの約束じゃ」  ——勘弁してくれよ、  思わず天を仰いだ。さらなる説得の言葉も思いつかず、再び向き合った薬布だらけの顔は目に涙さえ浮かべて唇《くちびる》を噛みしめている。  必死なのだということは、よくわかった。  こうなってしまった以上、少女をこの場から一人で帰すわけにもいかなくなった。  足音の謎《なぞ》など、すでに意識の彼方《かなた》だった。